青春と喪失

少年時代
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私は、幼少期から移動の多い生活を送ってきた。

父が自動車メーカーに勤めていた関係で、2度の海外生活を含め、今までに13度の引っ越しを繰り返してきた。

平均すると、成人するまでの20年間、およそ2年に1度引っ越している。

落ち着いて振り返ってみると、小学校は4回転校しており、中学、高校もそれぞれ1回ずつ変わっていた。

 

小学校1年生が終わった段階で海外に飛び、現地の小学校に転入。

2年間を海外で過ごし、日本に帰国、帰国子女の受け入れに定評のあった小学校に転入。

学区外登校を1年ほど続けた後、学区内の小学校に転入するも、2か月ほどで転校。

5年生に上がるのと同時に、小学1年生の1年間を過ごした母校に転校、卒業までの2年間を過ごす。

中学受験を経て入学した私立中学で1年を過ごし、再び海外へ。

中学2年生から高校1年生の夏までを海外で過ごし、日本に帰国。

都立高校に編入、卒業までの約2年間を過ごし、大学に入学。

大学では初めて、入学から卒業までを同じ学校で過ごした。

 

こうして書いてみると、なかなかに目まぐるしく過ぎた少年時代であった。

過ぎてしまった今となっては全てが幻のように感じられもするが、間違いなくそこに私はいて、自分なりに精一杯生きたと思う。

それでも、すべてが遠い過去の出来事となってしまった今、何かもっとできることがあったのではないかと考えたりもする。

 

数多くの移動を経験した私の半生は、同じだけ多くの出会いと別れを繰り返した人生だった。

出会いのときめきが別れの悲しみに様々に変化しながら、私の前を通り過ぎて行った。

その時は何を失ったのか気付かないまま、時が経つに連れて失ったものの大きさに気付き、その喪失感に途方に暮れることもあった。

そして失ったものの大切さに気付くとき、私は遠い過去に何か大切なものを置いてきてしまったような、取り返しのつかない間違いを犯してしまったような、やるせない気持ちになる。

この喪失感は、いったい何なのか。

幼い頃は特に、その地を離れていくということの意味を深く考えることもなかったように思う。

2年間を過ごした現地の小学校を離れる日も、清々しい気持ちでクラスメートたちを握手したりハグしたりしながら、ほんの少しも悲しむこともなく別れていった。

特に仲の良かった親友との別れの挨拶も、握手をして「またな」と一言交わしただけだ。

今考えてみると、その一つ一つの別れが、おそらく今生の別れなのである。

そんなことにも気づかず、まるで別れが日常の一部であるかのような感覚で、次に会う約束もせずに手を振った。

 

 

夕焼けの空がどんなに綺麗でも、その風景を永遠に留めておくことはできない。

同じように、日々は刻々と移ろい、同じ瞬間は二度と永遠に訪れない。

そしていつしか若い日々は過ぎ去り、後に残るのは、微かな記憶と甘美な喪失だけ。

 

 

私は2年間を過ごしたイギリスから帰ってきてしばらくの間、重い喪失感に苛まれた。

イギリスでの生活を夢で見て、目覚めてしばらく経ってから自分はもう日本に帰って来てしまったのだと気付いて、しばし途方に暮れることが何度もあった。

辛いこともあったが、良き友人に恵まれ、実り多い日々を過ごしたイギリスでの2年間だった。

せっかくイギリスに来たからには何かしらの足跡を残したいと思い、自分なりにいろいろと考えて必死に生きる中で、少しずつではあるが現地での生活に根を張っていったように思う。

渡航して最初の頃は、日々を生きるので精一杯だったが、徐々に自分の立ち位置が見えてきて、一日一日を噛みしめることができるようになっていった。

それでも、否応なく終わりはやって来た。

 

私の喪失感をより大きくしたのは、およそ1年の間好意を寄せ続けたイギリス人の女の子と離れなければならなかったことかもしれない。

彼女を誘って参加したダンスパーティーは、夢のような時間だった。

私はタキシードに身を包み、一輪のバラを手に彼女を待った。

黒いドレスを身にまとった彼女を一目見た時、私の呼吸は止まり、周囲の風景は固着し、地球すらも回転を止めてしまったかのような心地だった。

彼女の腰に手を回し、スローな曲に乗って踊ったとき、アホな中学生だった私は生まれて初めて

「時間よ止まれ」

と願う人の気持ちを、心の底から理解した。

 

私は別れの悲しみを抑え込むために、「必ずまた会いに行く」と心の中で唱え続けた。

それは、おそらく叶わぬ夢であると心のどこかで分かってはいたが、そんな思いを打ち消すように、「いつか会いに行く」と必死に念じ続けた。

日本に帰ってしばらくの間、私の原動力は、いつかイギリスに「帰る」という儚い希望だった。

未来に希望を繋がなければ、悲しみで胸が押しつぶされそうだった。

そこにいるときは気付かなかったけど、あの日々に僕の大切な何かが確かにあったんです。

あの日々に、大切なものを置いてきてしまったんです。

 

失恋の喪失感は、住み慣れた場所から引き離される感覚によく似ている。

恋をしているときは例えるなら、草花が芽吹き、暖かいそよ風の吹く春の風景。

その穏やかな風景の中に私たちは恋人の姿を重ね、心は温かな幸福で満たされ、安住の地を得る。

恋を失うと、それまでの穏やかな風景は突然に一変し、周囲はどこまでも続く茫漠とした冬の荒野となり、恋人の姿はどこにもない。

心の真ん中にぽっかりと大穴が開いてしまったようで、冷たい風がどこまでも吹き抜けていく。

恋人のいない風景という重い現実を突きつけられて、喪失感と無力感に苛まれる。

 

青春は何かを得るよりも、喪うことの方が多いような気もする。

少なくとも、私にとってはそうだった。

その場所にいる真の意味を理解するのは、いつもその場所を去ってからだった。

今となっては叶わぬ思いだけど、もう少しその場に留まっていられたなら、心の底から生きることができたのかもしれない。

 

 

というわけで神様、過去の僕にもう少し時間をください。

できれば海外駐在は、最低でも4年間くらいで。

何卒、よろしくお願いします。

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