私は中学2年生に上がるのと同時に、紳士淑女の国と呼ばれるイギリスに渡り、現地の私立学校、いわゆるパブリックスクールに転入し、そこで2年半ほど過ごした。
そこでの学校生活がどんなものであったか、忘れてしまう前に書き記しておこうと思う。
まず、私の通っていた学校の概要としては、
- 創立は1500年代
- 男女共学
- 幼稚園~高校まで
- デイスクール(全日制。かつてはボーディングスクール=全寮制だった)
- 校長会議に加盟
ざっとこんな感じである。
「校長会議」とは聞きなれない言葉であるが、いまだに何のための組織なのかよく分からない。
イギリス全土の私立学校の校長先生によって組織される会議のようで、日本でも有名な学校としては、イートン校やラグビー校、ハーロウ校なんかも加盟している。
服装は、幼稚園、小学校、中学1年~3年生まではそれぞれ共通の制服。
高校1年生から卒業までは制服はなく、スーツを着用する。
中学1年生の時は全員同じネクタイを着用するが、学年が上がるにつれて着用するネクタイにばらつきが出てくる。このことについては後述する。
一番上の学年には、”Prefect”=「監督生」と呼ばれる身分が存在し、色付きのシャツを着用することが許される。
監督生の中から”School prefect”=「学校代表の監督生」が選ばれ、彼らは行事の際は学校のシンボルカラーのローブを着用する。
さらに監督生の中から「Head of school」、要は「主席」のような生徒が男女各1名ずつ選出され、生徒の頂点に君臨する。
Head of schoolになると対外的な仕事も任されるらしく、例えば入学を検討している保護者に学内を案内したりする。
そういえば、私の父が学校の見学に行った時も、主席の男女生徒が学校内を案内してくれたと言っていた。
こんな感じで、さすがは階級社会のイギリス、生徒内に厳格なヒエラルキーが存在しているのである。
全寮制であった頃の名残で「寮」が残っており、中学校に上がるのと同時に全部で8つある寮のうちのいずれかに所属するようになる。
ちなみに、かの有名な『ハリー・ポッター(以下、ハリポタ)』に出てきた寮は男女混合だったが、我が母校は男女別々の寮で、男子寮が5つ、女子寮が3つあった。
ハリポタと同じく、それぞれの寮にシンボルカラーがあったが、シンボル動物はいなかった。
私の所属していた寮の色は緑色であり、色だけでいうとハリポタのスリザリンである。
ハリポタでは、生徒の性格や知能などでいわゆる「組み分け」がされていたが、少なくとも我が母校ではそのような区分けは存在しなかったと思う。
ただ、スポーツにめっぽう強い寮や、芸術系に秀でた生徒が多く集まる寮、というふうに、何となく寮ごとの特色はあったように思う。
もしかすると、寮長の先生が自分好みの生徒を選別していたのかもしれない。
寮生にも例によって「ランク分け」のようなものがあって、学業成績や寮への貢献度等によって、扱いが変わってくる。
その違いは、端的にはネクタイに表れていた。
まず、寮に属する一番下の学年である中学1年生、こちらは特に何も優遇措置はない。
違いが出てくるのはその上の学年からで、スポーツ、学業、課外活動などで寮の名声を高めるような活躍をした者には、寮長からオリジナルのネクタイが贈呈される。
ネクタイにもいろいろな種類があって、一番基本となるのは学校共通のネクタイで、これは全校生徒が持っている。
次に、寮のシンボルカラーの布地に、その寮の頭文字が印字されたオリジナルネクタイ、これは一定の活躍をして寮長に認められないと貰えない。
さらに、学校全体への貢献を評価されて、校長から直々に授与されるネクタイも種々存在する。
つまり、ネクタイを見るだけで、その人にどのような功績があって、寮内もしくは学校内でどの程度のランクに位置するかが分かってしまうのである。
さすが、階級社会のイギリスである。
他との差別化を図るためにどうしてもレアなネクタイが欲しくなるのが人情というもので、そのためには学業やスポーツ、課外活動など、いろいろ頑張ってしまうのも事実である。
何をどの程度やればどのネクタイがもらえる、という明確な基準は存在せず、すべては寮長や学校側の判断である。
ちなみに私の場合は、中学3年生の時に寮対抗のサッカー大会やラグビー大会での活躍が認められ、晴れて寮のオリジナルネクタイをゲットすることができた。
…というのは表向きで、サッカーの試合で白熱しすぎて膝を損傷、しばらくの間松葉杖での生活を余儀なくされたため、もしかしたら寮長が哀れんで恵んでくれたネクタイだったかもしれない。
先ほど説明したPrefect、つまり監督生は寮の中で「選挙」によって選ばれる。少なくともうちの寮ではそうだった。
最高学年に上がる前に全寮生の前でスピーチを行い、自分がいかに監督生に相応しいかをアピールするのである。
その時にマジメ一辺倒では支持は得られず、適度にユーモアも交えて下級生たちの心を掴まねばならない。
スピーチが終わると投票用紙を渡され、監督生に相応しいと思う生徒の名前を、たしか2,3名書いた記憶がある。
最終的には寮の先生たちが決定するのだろうが、選ばれた監督生は誰もが納得する顔ぶれであった。
こうやって書きながら思ったのだが、おそらくSchool Prefect、すなわち学校代表の監督生たちは、それぞれの寮から選ばれたPrefectの中から、さらに校長先生が選び出すのではないだろうか。
私はPrefectになれる学年に上がる前に帰国したので経験していないが、そんなプロセスのような気がしてきた。
寮の監督生たちのトップに君臨するのが “Head of house”=寮代表で、寮生の中で唯一、個室を与えられる。
ところで、全寮制ではないのに寮が残っていて何か意味があるのか?とも思うが、基本的に中学生以上になるとあらゆるイベントが寮を中心に展開していくことになる。
というのも、日本でいうところの「何年何組の教室」というものは存在せず、教科ごとに分けられた建物が存在するのみで、自分の「本拠地」となるのが寮なのである。
我が母校の場合、学校の敷地内には自然科学棟、社会科学棟、文学棟、音楽室、美術室、というふうに教科ごとに建物が独立していた。
生徒は教科が変わるたびに建物間を移動しながら授業を受けるのである。
敷地内にはそのほかに寮が点在していて、寮のほかに講堂、チャペル、体育館、図書室、教務室、医務室などがあった。
ちなみに、先生たちが集まる豪華な建物だけは、ふかふかの絨毯敷きになっていた。
イギリスらしく、午後の3時頃になると先生たちのティータイムが始まるが、生徒は部屋に立ち入ることは許されない。
先生に用事がある場合は、部屋の入口で待機し、部屋に入っていく他の先生が通りかかったときに言伝を頼む。
お目当ての先生がその気になったときだけ、ごく短時間、部屋の外で先生と立ち話をすることができると、こういう制度であった。
気軽に先生と話すこともできないのであった。
まず、朝学校に来て最初に行くのが寮である。寮には学年ごとの部屋があって、自分のロッカーも寮の部屋にある。
寮の中心には「談話室」的な大広間があって、寮生に向けたお知らせや寮長からの訓示などが行われる。
中学1年生と2年生は同じ部屋、それ以上の学年は、各学年ごとに部屋が割り当てられていた。
中学3年生に上がった時に寮生の一人がニンテンドー64を持ち込んだため、私たちの部屋には休み時間になると他の寮からも同級生たちが集まってきて、マリオカート大会が開催された。
ところで、寮への異性の立ち入りは禁じられていた。
明確な理由は聞いたことがないが、まぁ何となく分かる気はする。
私の寮の談話室には卓球台が置いてあって、休み時間や自由時間には学年関係なく寮生が集まって白熱した試合が行われており、学年を超えた交流の場となっていた。
私の寮に固有のイベントとして、毎年全員参加の卓球大会が催され、寮に所属する先生も含めてトーナメント方式で試合が行われる。
私はいつも1回戦敗退だったが、決勝戦になると全学年の寮生たちが見守る中で白熱した試合が行われ、優勝者にはトロフィーと記念品が贈呈された。
卓球といえば今でも覚えているのは、その場に集まった人全員でプレーできるように、「アラウンド・ザ・ワールド」と名付けられた遊びがあった。
まず、その場にいる人を大まかに半数に分け、卓球台を囲むように両サイドに並ばせる。
それぞれのサイドの一番前の人がラリーを開始し、一回ボールを打ったら反対側の列の最後尾に並ぶ。
ラリーが続く限り、同じことを繰り返すので、全員で卓球台の周りをグルグル回ることになる。
その様子は、まさに「アラウンド・ザ・ワールド」であった。
ミスをした人は脱落していくため、最終的には1対1の試合に落ち着くというわけだ。
ラケットが全員分あるわけではないので、足りない分は、そこいらにある教科書やらテニスラケットやら筆箱やら、使えそうなものは何でも使った。
中には素手で挑む猛者もいた。
毎回何かしら面白いことが起きるので、笑いの絶えない楽しいレクリエーションであった。
話を元に戻そう。
…と思ったが、分量が多くなってしまったため、続きは稿を改めて次に回すことにしよう。
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