最後に漏らしたのはいつだろう

学校生活

もよおしたら、しかるべき場所でしかるべき時に用を足す。至極当然のことである。

特に文明社会を築いた我々人類は、ところかまわず気の向くままに用を足すその他大勢の動物たちと一線を画すことに、種族としての誇りを見出している。

ただ、成長の過程で多かれ少なかれ「事故」が起きることは仕方のないことである。人間はそういった経験を経て、少しずつ大人になっていくのだから。

私の場合、最後の「大きな」「事故」は小学校3年生の時であった。

 

 

そのころ私は、いわゆる発展途上国のSA国に住んでいた。

父の仕事の都合で小学校2年生に上がる段階で渡航したSA国は英語圏で、私は現地校に転入した。

一応、渡航前に英会話のスクールにも通っていたのだが、そんなものは気休め程度で、最初は右も左も分からず、まわりのみんなが何を言っているのか全く理解できなかった。

この状態で一番苦労するのは、トイレである。せめて「トイレに行きたい」という英語くらいは覚えてから渡航したかった。

「トイレに行きたい」と言えないために、図らずも膀胱の限界に挑んだこともある。

ある日のこと、私は授業中に「小さい方」をもよおしてトイレに行きたくなったのだが、英語が分からなかったので先生にそのことを伝えることができずにいた。

何も言わずに教室を飛び出すこともできたのだろうが、根が小心者の私はそんなこともできず、とにかく根性で耐えるしか術を知らなかった。

こういう事態に陥った場合の時間の進みの遅いことは、衆目の一致するところだと思う。

膀胱括約筋、というものがあるのかは知らないが、全神経を集中しないと漏れそうである。

祈るような気持ちで待ち続け、終業のベルが聞こえたとき、私は一目散にトイレを目指した…いや、目指したかったのだが、先生が

「みんな聞いて!今日はJULIAの誕生日です!」 (本当にJULIAだったかは覚えていない)

欧米の文化、なのかどうかは分からないし、もしかしたらSA国の文化なのかもしれないし、もしかしたら単なるローカルな風習かもしれない。

ともかく、誕生日ボーイもしくはガールがケーキを持ってきてクラスのみんなに振舞う、という風習があった。

普段だったら子供心に何ともありがたい風習なのであるが、私はトイレに行きたいのである。

休み時間だというのに、教室内に即席の誕生日会場が設けられ、プチお誕生日会が始まってしまった。

ただでさえ膀胱が破裂する寸前なのに、お腹にケーキが入ってきて腹圧がさらに上乗せされたものだから、私の膀胱は限界を超えて膨張した。

お誕生日会が終わった時、私はもはや真っ直ぐ立つこともできず、不自然に体を傾けながらヨロヨロとトイレに向かった。

この時は何とか自らの尊厳を守ることに成功したのだが、本当の悲劇はその後に待っていたのである。

 

 

その日も、いつもと変わらない朝だった。

母の運転する車で、時速180kmで学校を目指す。

さらっと書いたが、SA国では一般道でも時速180km超えは至って普通である。輸入車に乗ると、スピードメーターが時速260kmまで表示されていて、こんなのいつ使うんだと思うことがあるが、使うのである。

あのスピード域に突入したエンジンの咆哮が懐かしい。

ちなみにSA国では、車で人を撥ねてもその場で止まらず、とりあえず警察署まで行きなさいと指導されるそうである。

止まっている最中に、車を盗まれるかもしれぬ。強盗が襲ってくるかもしれぬ。いや、撥ねた相手が実はギャングのメンバーで、仲間が集まってくるかもしれぬ。

救護義務なんてクソ喰らえというわけで、今思うとなんとも物騒なハナシである。

 

さて、この頃には、SA国での生活も1年近くなり、私もさすがに「トイレに行きたい」くらいは英語で言えるようになっていた。

それなのに何故悲劇は起きたのだろう。

直腸からの緊急連絡が入ったのは、午前中の授業の最中だった。

「直腸より緊急電。毒素を含んだ汚染物質が直腸内に滞留している。大至急トイレに直行されたし」

「今は授業中だ。もう少し待てんのか」

「ことは急を要する。現在の任地はいったん離脱し、速やかにトイレへ移動を開始してほしい。場合によっては“緊急開門”も辞さない覚悟である」

「待て!緊急開門は断じて許さん!」

何か変なものでも食べたのか。古い油があたったのか。あるいは発展途上国あるあるで、飲み水が汚染されていたのか。

思い当たることもないわけではないが、差し当たっての課題は原因の特定ではない。

授業中ではあるが、「トイレに行きたい」と言えば済む話である。しかし、なぜか成長途上の子供は学校で「大きい方」をすることを忌み嫌う。

理由は分からんでもない。

アイツ学校でウ〇コしたらしいよ、きったね~、くっせ~、などなど、悪いウワサが立つのを恐れるゆえである。

汚ねえもなにも、生物である以上、陰口をたたいている当人も排泄という宿業からは逃れられないのである。

まさに「目クソ鼻クソを笑う」ならぬ「クソを笑う」である。

しかし己の宿業は棚に上げて、少なくとも学校にいる間は、子供たちは自分が排泄とは無縁な存在であるかのように装うのである。

大人になった今はなんて事のないウ〇コ問題も、学齢期の子供たちにあっては死活問題なのだ。

そんなわけで、当時の私が選んだ道は、当然のことながら「ガマンする」であった。

休み時間になっても一向に腹具合は収まらず、私の額には脂汗が滲み出てきた。

とりあえず気を紛らわそうと、私は教室の外へ出た。

SA国で私の通っていた学校は、日本の小学校と構造が違っていて、各学年の教室が独立した建物になっており、教室を出るとそこは建物の外、中庭になっていた。

中庭を歩き回っていれば気も紛れて、じきに痛みも治まるだろうと思っていたが、一向にその気配はない。

それどころか、ずっと続いていた腹痛は、ある種の寒気を伴い始めた。すなわち末期症状である。

 

最後の時は、あっけなく訪れた。直腸からの最終通告が無情に響いた。

「限界である。これ以上毒素を含んだ汚染物質を持ち堪えることはできない。これより“緊急開門”を行い、汚染物質の強制排出を行う。このような結果になり、すまない。以上」

待て!という私の叫びも虚しく、有無を言わさず、情け容赦なく、緊急開門が行われた。

自分の身体のどこにこんな怪力が眠っていたのかと思うほどの力で、私の意思を全く無視して「門」が非情にもこじ開けられ、出口を求めて猛り狂っていた、毒素を含んだ大量の汚染物質が一気呵成にほとばしり出た。

それは、ちびったとか漏らしたとかいう生半可なレベルではなく、お腹の中がきれいさっぱり空っぽになる勢いであった。

自らの直腸に対する私の統率は、完全に失われていたのである。それはまるで、自分のお腹の中に、指示系統の全く異なる異質な生命体が出現し、好き勝手に暴れ始めたかのような感覚であった。

こうして呆気なく、守ろうと思えば守れたはずの私の尊厳は失われた。

 

その後、自分がどう行動したのか、はっきりとは覚えていない。

嫌な出来事は記憶から抹消するという脳の本来的な機能と、ショッキングな事件はいつまでも記憶しているという、これまた本来的な脳の機能が真っ向から相克し、折衷案として断片的な記憶が残されたということのようだ。

 

当時はブリーフを履いていたため、目も当てられないほど多くの汚染物質がパンツの外に漏洩することはなかった。

…ような気がする。

トイレにたどり着いたはいいものの、トイレットペーパーが無かった。

…ような気がする。

汚染されたパンツはやむなくゴミ箱に放棄し、以後はノーパンで過ごす羽目になった。

…ような気がする。

SA国は乾燥したところだったので、意外なことに、臭いはほぼ残らなかった。

…ような気がする。

トイレから出た後、身体中の力が抜けてヘナヘナと中庭の芝生の上に座り込む私に、当時仲の良かった友人が「すごく体調が悪そうだけど、大丈夫かい?」と聞いてくれた。彼の視線が一瞬、私のジーンズの裾をとらえた。そこには、不自然な茶色いシミがあった。

…ような気がする。

 

さて、その日はたまたま終業式の日で、各学年が講堂に集まって出し物をすることになっていた。

講堂の舞台でクラスメートたちと出し物をする当時の私の姿を、母が写真に収めていた。

今、懐かしくその時の写真を眺めていると、何人かの級友たちの視線が私の下半身に注がれているように見えるのだが、そのことの意味を考えると、少年時代の美しい思い出に茶色いシミがつくような気がするので、やめておこう。

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