君をのせて

少年時代

自転車の後ろに、ナオミという名前の女の子を乗せて走ったことがあった。

 

 

 

僕が高校生だった頃だから、かれこれ7、8年前のことになる。

 

ナオミは同じ高校の同級生だった。

 

家の最寄り駅が同じだったので、よく行き帰りの電車で一緒になったのだ。

 

ナオミのことは、特に何とも思っていなかったのだが、電車の中では、気づくと彼女の姿を探していた。

 

ナオミの姿を見つけると、僕は嬉しさを押さえつつ、偶然を装って声をかけた。

 

彼女はとても明るい性格で、それでいて落ち着いた、おっとりとした雰囲気を身にまとう少女だった。

 

飛び切り美しいという訳ではないが、どこか惹き込まれるような、そんな不思議な引力を持っている。

 

 

 

彼女は、いわゆるクリスチャンだった。

 

一度、日曜日の礼拝に誘われたことがある。

 

僕は別にクリスチャンではないから、と言って断ると

 

「面白いから来てみなよ」

 

と言われて、結局僕は

 

「じゃあ、一度だけなら」

 

ということで、日曜礼拝に参加することになった。

 

約束の日曜日、チャペルに入ると、まだ人は少なく、ナオミの姿も見えなかった。

 

とりあえず、僕は一人、前寄りの列で腰掛けて、建物の中を見回していた。

 

ステンドグラスから差し込む昼の光が、正面の十字架を映し出している。

 

そして、燦然と輝く、大きなパイプオルガン。

 

荘厳な空気に何となく気圧されていると、後ろからトントンと肩を叩かれた。

 

振り返ると、ナオミが軽く手を振りながら微笑みかけている。

 

「来たよ」

 

僕が目だけで挨拶すると

 

「来たね」

 

彼女も目で答えてくれた。

 

教会の異質な雰囲気に圧倒されて落ち着かなかった僕は、彼女の姿を見て、温かな安堵に包まれた。

 

 

 

教会が大勢の人で満たされたころ、前の扉から、黒服を着た牧師が入って来た。

 

すると、ナオミは立ち上がって前の方に歩いて行き、牧師と何か言葉を交わすと、パイプオルガンの前に腰掛けた。

 

あれこれ考える間もなく、ナオミの奏でるオルガンの旋律が、チャペルに響き渡った。

 

一斉に立ち上がる人々。

 

両手を挙げて目を閉じ、祈りの言葉を唱える牧師。

 

会場を満たす、讃美歌の調べ。

 

またしても壮麗な空気に圧倒されつつも、僕の目はナオミの横顔に釘付けになっていた。

 

ナオミは、軽く目を閉じ、中空を見上げるような格好でオルガンを弾いていた。

 

そうか、君はオルガン奏者だったのか。

 

そして君は、紛れもなく、クリスチャンなんだ。

 

学校では見たことのないナオミの姿に、僕はただ見とれるしかなかった。

 

数学が苦手だと言って笑う教室のナオミの姿と、目の前でオルガンを奏でるナオミの姿が、重なった。

 

君は、こんなにも…

 

 

 

ふと、オルガンを弾く彼女と、目が合う。

 

少しだけ、微笑みかけるナオミ。

 

笑い返そうとしたが、僕は金縛りにあったみたいに何もできなかった。

 

全てが、夢とうつつの間の、曖昧な世界の中で過ぎていった。

 

そんな日曜日のひとときだった。

 

 

ナオミを自転車の後ろに乗せて、僕は駅からの道を走っていた。

 

途中から、河川敷をまっすぐに進み続ける道に入る。

 

頬を撫でていく、そよ風が心地よい。

 

「わー!はやい、はやーい」

 

彼女のあまりのはしゃぎ様に、僕は笑い声をあげた。

 

ナオミはいつもバスで駅まで来ていた。

 

その日は、昼からバス会社のストライキがあって、すべての路線が運休していた。

 

「どうやって家まで帰るの?」

 

「うーん…ママに電話して迎えに来てもらおうと思っているんだけど、少し時間がかかりそうなんだ。ここで待つね」

 

「よかったら、途中まで俺の自転車に乗っていかない?後ろだけど・・・」

 

「え?でも、それは悪いから…」

 

「大丈夫、ちょっと待ってて。自転車取ってくる」

 

「本当に?じゃあ、途中まで便乗しちゃおうかな」

 

よく晴れた、のどかな初夏の陽気だった。

自転車の後ろでしきりに歓声を上げるナオミは、やはりいつものナオミだった。

 

それでも、僕は彼女のもう一つの顔を知っている。

 

以前は気にならなかった、十字架のペンダントの意味も、今なら分かる。

 

信じて祈る君は、美しい。

 

ナオミと、いつまでも走っていたいような気分になった。

 

いつもなら、何か考え事をしながら、無言で黙々とペダルをこいでいる。

 

今は、後ろから聞こえてくる無邪気な声に心を躍らせ、笑いながらペダルをこいでいる。

 

遠くの方に、分かれ道が見えてきた。

 

あそこで左に曲がって河川敷を離れ、住宅地に入る手前でナオミと別れることになる。

 

このまま、まっすぐ、君を乗せて、走り去ってしまおうか?

 

川を下っていけば、やがては海に出る。

 

海を見下ろす丘の上で、君を抱きしめてしまおうか?

 

誰もいない浜辺で、強引に君の唇を奪ってしまおうか?

 

見慣れた風景が遠ざかっていくのに気付いた時、君はどうするのだろう。

 

普段の君からは想像できない、不安げな声で

 

「降ろして」

 

と、言うのか。

 

いつものような無邪気な声で、いたずらっぽく

 

「あれぇ?どこにいくのぉ?」

 

と、聞くのか。

 

あるいは、もしかして君も、僕と一緒に、このままいつまでも走り続けたいと思っているのか。

 

僕には分からない。

 

分からないから、せめて…

 

「あのさ!」

 

「なぁに?」

 

「…もう少し体をくっつけてくれないかな?さっきから重心が不安定なんだ」

 

事実、僕がハンドルを切るたびに、ナオミの体が小さく左右に揺れて、自転車がふらついていた。

 

やや、間があって、

 

「ふふっ」

 

という小さな笑い声が聞こえたような気がする。

 

ナオミの腕が、両側から僕の腰のあたりをしっかりと押さえた。

 

後ろから、抱きしめられたような格好になる。

 

自転車がふらつくことは、もうなかった。

 

少しして、背中に、そっとナオミの頬が押し当てられるのを感じた。

 

何かが、身体中を駆け巡るのを感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「じゃあ、また明日!」

 

「うん、また明日。今日は乗せてくれてありがとう!」

 

遠ざかるナオミの後ろ姿を見送りながら、僕は密かに、ある決意をしていた。

 

彼女の後ろ姿が見えなくなると、僕は自転車をUターンさせ、再び川下に向かって走り始めた。

 

追い風に、自転車はぐんぐんとスピードを増す。

 

ペダルをこぎながら、僕は声を上げて笑った。

 

体の奥底から、力がみなぎってくる。

 

ナオミの笑い声が、いつまでも耳の奥でこだましている。

 

背中に残るナオミの温もりに、繰り返し、胸の高鳴りがこみ上げてくる。

 

いつの間にか、見慣れた風景は消え去り、眼前には知らない街が広がっていた。

 

見知らぬ道でも、君と一緒なら、怖くない。

 

遥か彼方に、陽光を照り返す、海のきらめきが見えた。

 

人のいない静かな浜辺で、僕は君の手を引いて歩いている。

 

そんな幻を、僕は確かに見たのだ。

 

僕は声を上げて笑った。

 

君の奏でるオルガンの旋律が、世界を黄金色に染め上げてゆく。

 

黄金色に染まりゆく世界で、僕の身も心も、黄金色に染まった。

 

すべては君のせいだと笑いながら、僕は海へと続く道を走り続けた。

(完)

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