エミリーに一目惚れをしたのは、数年前の夏だった。
叔父のアメリカ勤務時代の部下だった女性が日本へ旅行に来るというので、ヒマを持て余していた学生時代の僕は、日本滞在中の付き添いを頼まれた。
叔父いわく、「英語の練習だと思って頼まれてくれ、予算は全部おれが持つから」
ということだ。
朝早く起きて成田空港に迎えに行く途中、僕はハッキリ言って乗り気ではなかった。
叔父の仕事は、地質研究を行う専門機関の職員である。
その叔父の部下だった女性ということは、同じく、地質研究とかいうわけのわからないマニアックな仕事に従事している女の人ということだ。
僕は、ビン底メガネをかけて、髪をひっつめた「いかにも」な感じのオタクなアメリカ人女性を想像して、電車の中でげんなりしていた。
どうせ「スシ」と「サシミ」と「アニメ」にしか興味ないんだろ~。
到着ロビーで、僕はその女性の名前「エミリー」を書いたダンボールの切れ端を持って、ゲートの前で待機していた。
空港での古典的な人探しの方法だ。実際にやると、けっこう恥ずかしい。
アメリカン航空何々便が到着したとのアナウンスが流れ、しばらくしてゲートから人が流れてきた。
当然だが、外国人が多い。
白人、黒人、アジア系、インド系、ヒスパニック…
さすが、人種の坩堝アメリカ。
そんな中で、一人の女性の姿が目にとまった。
ジーンズを履いて、パステルオレンジのタートルネックを着ている小柄な女性だ。スーツケースを引き、背中には大きなリュックを背負っている。
一目しただけでは人種系統がわからない、不思議な「美少女」だった。
ぱっと見の深い彫りは、れっきとした欧米の白人系だが、エキゾチックな目鼻立ちはアジア系を想像させる。
健康的な小麦色の肌は、中東を彷彿とさせる。
細くて濃い眉の下に、キラキラと輝く利発そうな瞳。
「不思議の海のナディア」が、実際に現れたようだった。
僕はどちらかというと年上女性が好みなのだが、この時ばかりは、彼女の姿に目が釘づけになった。
もしかしたら、周りにいた男どもは、みんな同じ事を考えていたかもしれない。
あんな美少女とデートができたら、どんなに素敵だろう。
街中の視線が彼女に釘付けになり、僕は得意満面。
腕を組んでくれたら最高じゃないか。
そんな想像を巡らせていると、「ナディア」が周囲をキョロキョロ見回して、僕の持っているダンボールに目をとめた。
すると、彼女の顔に安堵の笑みが広がり、僕の方に歩いてくるではないか。
「こんにちは、初めまして!私の名前はエミリーです」
久しぶりに本場の英語に触れ、僕はにわかに緊張した。
「あ、えーと。初めまして、エミリー!お会いできて嬉しいです」
エミリーが手を差し出してきたので、僕も握り返す。
小さくて温かく、柔らかい手だった。
エミリーは僕よりも5歳年上だと聞いていたが、実際には5歳年下なんじゃないかと思うくらい、幼い面影を残す顔だった。
近くで見ると、彼女が小柄なことがよく分かる。
僕は彼女のスーツケースを引いて、駅への道を歩き出した。
「喉かわいてない?お腹はすいてない?」
僕は自分でも分かるくらいハイになりながら、エミリーに話しかけた。
それにも増して、エミリーはマシンガントークのごとく、僕に質問を浴びせかけてきた。
必死に答えているうちに、駅に着いた。
風采の上がらない青年が美少女を連れて歩くなんて、アニメの中でしかあり得ないことだと思っていた。しかし、現実にそれが自分の身に起きている。
「あなたって、とても面白い人ね」
せいぜい10分くらいしか話していないのに、そんなことが分かるのか?と思いながらも、僕もとっさに思っていたことを言ってしまった。
「そして君は、とてもかわいいね」
経験してみればわかることだけど、欧米の人と会話をしていると、独特のペースに乗せられて、日本人同士では絶対に言わないようなことをたまに言ってしまう。そして、それが意外と許される。
「まぁ、ありがとう!」
エミリーの顔に、少女のような笑みが広がった。
成田エクスプレスで新宿に向かう車内では、エミリーについて色々と知ることができた。
勝手に妄想していたことが結構当たっていて、エミリーは様々な人種の血を引いていることが分かった。
お父さんはパキスタン人と白人系アメリカ人のハーフ。お母さんは、ネイティブアメリカンと、アジア系アメリカ人のハーフ。
その先の世代にさかのぼると、さらにたくさんの国名や民族名が登場した。
「人種のピラミッドや~」
下手くそなシャレがエミリーは気に入ったようで、その後嬉しそうに何度も繰り返していた。その顔は、何となく誇らしげである。
様々な民族の歴史を積み上げたピラミッドの頂点に、エミリーは立っている。
そして、自身の複雑なルーツに興味を持ったことがきっかけで、地質研究の道を歩み始めたらしい。
大学では考古学と地質学を専攻していたそうだ。
それを聞くと、彼女のような美少女が…
いや、年齢的には決して少女ではないのだが…
彼女が一見マニアックな仕事をしている理由も腑に落ちる。
ところで、気付いたことがある。
欧米諸国には、「間接キス」という概念が恐らく存在しないと思う。
僕が「ライフガード」という迷彩柄パッケージのペットボトル飲料を飲んでいると、エミリーは興味を持ったようで、「それは何?」と指差してきた。
「ただの炭酸飲料だよ。飲んでみる?」
僕は冗談半分でライフガードを差し出したのだが、エミリーはありがとうと言って、そのまま口をつけて味見をしていた。
あまりにも当然のように間接キスをやってのけるので、家に帰って調べたところ、欧米には間接キスに該当する概念は見当たらなかった。
ちなみにエミリーは、ライフガードをあまり気に入らなかったようだ。
もう一つ気付いたことがある。
僕は、エミリーに一目惚れしてしまったようである。
エミリーを見て一目惚れしない男性がいたら、僕は会ってみたい。その男性こそ真の聖者である。
そして僕は聖者になんてなりたくない。
しばらく一緒に話したりして過ごすうちに、僕は完全に彼女の虜になってしまったのだ。
初日は、エミリーを上野にある外国人向けのゲストハウスに送り届けて終了だった。こういう施設の存在を、僕はその時初めて知った。
彼女の旅の疲れを考えて、僕は「一緒にディナーでもどう?」というチャラい言葉を呑み込んだ。
焦らなくても、明日から彼女と二人きりで国内旅行を満喫することができるのだ。
しかも、予算はすべて叔父が持ってくれる。
僕はやりたい放題というわけだ。
…別に変な意味ではなく。
家に帰った僕は、電話で叔父と相談しながら、エミリーの思い出に残る旅のプランを詰めた。
宿泊先のホテルと宿泊日時は決まっているので、あとはその間を埋めていくだけである。
大まかな計画は既に練ってある。あとは電車の中で聞いた彼女の希望も考慮したところで、僕なりの旅行プランが出来上がった。
およそ一週間に及ぶ、予算度外視(叔父さんゴメンナサイ)のデラックスでマーベラスな日本ツアーである。
日本に来た外国人を「お・も・て・な・し」する教科書的なプランを立てて、僕は自己満足に浸っていた。
何より、一週間もの間、僕は美少女と一緒に旅行ができるのだ。
甘い空想を巡らせながら、僕は翌日からの旅に備えて早めにベッドに入った。
当然、目を閉じれば、エミリーの姿ばかり浮かんでくる。
かわいい60%:綺麗30%:セクシー10%
これが、エミリーの容姿を僕基準で数値化したデータである。
彼女の胸の大きさを過小評価しているというのなら、セクシーの比率を上げてもいい。
ただ、誤解を恐れずに言うなら、彼女の容姿という側面での最大の魅力は「顔」である。
男性だけでなく、女性でも、エミリーの顔を見た時、その不思議な魅力の虜になると思う。
最初は、「わっ!かわいい人」
次に、「よく見ると、かわいいよりむしろ美人」
最後は、「どこの国の人だろう?」
となるはずだ。
この時点で、もうすでにエミリーの虜である。
彼女のことをもっと知りたくなる。知れば知るほど気を引かれる。そしていつの間にか、好きになる。
話をしてみると、そのフレンドリーな性格にメロメロになる。
唯一障害があるとすれば、言葉の壁であるが、伝えたいという気持ちがあれば、何とかなるものである。
翌日からの夢のようなデートを想像しながら、僕は眠りに落ちていった。
…ていうか、いつの間にデートになったんだ?
ただ単に旅行のガイドを頼まれただけだろうに。
この後、エミリーの日本案内計画は、僕の想像を超えた展開を見せることになろうとは、まだ誰も知らない。
コメント