いかがわしい妄想を抱いて、一人ベッドの中で夜遅くまで悶えていた僕は、よく眠れないまま朝を迎えた。
鏡に映った自分の顔を見て、一気に心がへこみそうだった。
エミリーに会う大切な日だというのに、まぶたは腫れぼったく、顔色も悪い。
上野駅まで向かう電車の中、僕は必死にまぶたのマッサージを施し、何とかいつもの奥二重を取り戻した。
ついでにエスカップを飲んで、気分をしゃっきり覚醒させた。
ゲストハウスに着くと、エミリーが外に出て僕を待っていた。
「おはよう、エミリー。ごめん、待った?」
「おはよう!早く目が覚めたから、その辺を散歩してたの」
にっこり笑うエミリーを一目見て、昨日とは違う彼女に気付いた。
何というか、化粧が濃い。
もともと目鼻立ちのくっきりしたエミリーの顔が、さらに陰影を深くしたような感じだ。
昨日は後ろで一つに束ねていた髪を今日は下ろして、緩やかなウェーブがかかっている。
縦じま模様のワンピースに、白いレースのカーディガン。
そして、耳元に光る、小さなピアス。
昨日までは少女だったエミリーが、一晩でオトナの女性に成長したかのようである。
「大丈夫?目が赤いよ?」
そう言って僕の顔を覗き込んできた彼女の笑顔は、やっぱり少女そのものだった。
「よく眠れなくてさ」。
君のことを考えていたんだぜ!
「それより、今日は何というか、一段とかわいいね」
会話は欧米スタイルを真似ているだけなので、こういうことも言っていいのである。多分。
「ほんとに?ありがとう!ほら」
そう言うと、エミリーはステージで全身を披露するかのように、その場で優雅に回って見せた。
ワンピースの裾がふんわりと広がり、妖精が舞い降りたように見えた。
朝早くから、上野の路地裏でこんなことをしている二人の男女を想像してみてほしい。
旅行プラン一日目の今日は、京都旅行である。
京都へ向かう新幹線の中、僕はエミリーに、今まで知らなかった新しいゲームを教わった。
紙とペンさえあれば遊べる、「海戦ゲーム」というものだ。
相手の軍艦の位置を推測する、けっこう頭を使うゲームである。
向かい合わせで座っていると、僕の軍艦の位置を探ろうとしているのか、エミリーは時折じっと僕の様子をうかがってくる。
上目遣いに見つめてくる瞳を意識しながら、ときどき顔を上げると、もろに彼女と目が合う。
そのたびに急いで目を伏せるエミリー。
そんな様子が、いたずらっ子のように見えて、思わず吹き出してしまった。
彼女もバツが悪そうに、舌を出して笑った。
「ほら、富士山だよ」
窓の外に広がる富士山の雄姿を見て、エミリーは「うわ~お」と感動の声を上げた。
そのスキに、僕はエミリーの手元の紙を素早く覗き込み、軍艦の位置をしっかりと記憶した。
ついでに、ワンピースの胸元からチラチラと見える柔らかな「谷間」も、しっかりと捕捉した。
「こんな近くに見えるとは思わなかった。美しいわ~」
エミリーは感慨深げに言った。
「同感だよ。こんなに近くで見られるとは思わなかった。見事な『谷間』だね」
「谷間??」
「…いや、何でもない」
数ターン後、僕はエミリーの軍艦を見事に撃沈させた。
予想していた通り、京都の夏は相当蒸し暑い。
朝からこの調子だと、体力の消耗も激しそうだ。早々に計画を変更する必要があるかもしれない。
先に旅館へ荷物を置きに行って、身軽になったところで京都旅行がスタートする。
ガイドを頼んであった、京都の大学に通う友人、ユダガワさん・通称「ユダっち」と合流し、「両手に花」状態で旅が始まった。
ユダっちは、きりっとした印象のメガネ女子で、いかにもキャリアウーマン風の雰囲気だが、見た目とは違って、とても親しみやすい。そしてよく笑う。
ちなみにユダっちは外国語学部の英語コースに在籍しているので、京都にいる間は彼女に全て丸投げできる。
つまりその間、僕はエミリー攻略方法だけに集中していられるのだ。持つべきものは友である。
エミリーとユダっちは少し話しただけで意気投合して、すぐに仲良くなった。
ユダっちが英語を難なく話せることに加えて、二人とも性格がとてもフレンドリーであることが幸いした。
三十三間堂を経由して清水寺を散策、あとは東本願寺、西本願寺あたりを見ながら、適当に京都市内をぶらぶらする計画である。
ただ、エミリーは大学で考古学を研究していただけあって、歴史的価値のある建造物や工芸品に非常に興味を示し、結果的に一カ所にかける時間が長くなったので、予想以上にタイトなスケジュールになった。
それでも、エミリーにとっては、とても有意義な一日になったようだ。
日本の伝統文化に初めて触れたエミリーは、常に目を輝かせて真剣にユダっちの説明に聞き入り、時折メモをとったり質問をしたりして、知識を吸収しようと努めていた。
そんな彼女の横顔を眺めているうちに、僕は密かに、エミリーに対して尊敬の念を抱き始めていた。
君は、ただの「美少女」ではなかったのだ。
異国の歴史と文化に、純粋な知的好奇心と敬愛の念をもって接する君の姿は、美しい。
幼さを残す彼女の横顔は、この時ばかりは、学術の女神ミューズの化身のように神秘的に見えた。
菩薩像と正対するエミリーは、まさに光り輝く菩薩と同じ存在なのではないかと錯覚を起こすほどである。
不思議な感覚だ。
この時、僕はエミリーの存在そのものを心から好きになったのだと思う。
顔が綺麗だとか、胸が大きいとか、そういうことは何処かに吹っ飛んでしまい、彼女の存在自体が愛おしく感じた。
一目惚れの浮かれた熱情と、心の奥底の静かな想いが融合して、本気で彼女を好きになった。
「あなたの国って、本当に美しい歴史と文化を持っているのね」
エミリーが僕の方を向いて、嬉しそうに言った。
「うん、そうだね」
いや、そうではない。
美しいのは、この国の歴史や文化そのものではなく、そう感じる君の心だ。
君の心が美しいから、そう思えるんだ。
言葉にはしなかったけど、僕はそう確信していた。
清水寺の舞台で記念撮影をして、東・西本願寺を見学して京都駅周辺に戻って来た頃には、すっかり日が暮れていた。
これから僕とエミリーは京都市内の旅館に移動することになっていたが、せっかくだからユダっちを交えて宴会をしようということになった。
この時点で、ユダっちは明日の奈良旅行の途中まで同行することが決まっていた。
エミリーもユダっちも、一日一緒に過ごしただけで、お互いにかけがえのない友人になったようだ。
女将さんに頼み込んで夕食を一人分増やしてもらい、準備をしてもらっている間に、男子・女子に分かれて温泉に入った。
女子が温泉に行っている間、僕は叔父に進捗状況を電話で報告した。
「あ!そういえば、エミリーがお前のこと、すごく優しくて面白い『素敵な少年』だって言ってたよ。憎いな~。引き続きよろしく頼むよ」
いつの間にエミリーは叔父と話したのだろう。
お世辞と分かっていても、エミリーの言葉は素直に嬉しかった。
しかし、「少年」とは一体どういうことだろう。
女子二人が戻ってきた。
浴衣に身を包んだ湯上り美女二人が部屋に入ってきたときは、もうここで死んでもいいと思った。
メガネを外し、頬をピンク色に染めたユダっちは、いつものきりりとした印象と違って、今どきの若い女の子そのものである。
メガネやめて、コンタクトにすればいいのに。明日、本気で勧めてみようと僕は思った。
そしてエミリー。
浴衣を着るのは初めてだと言っていたが、アジア系の血を引いているせいもあるのだろうか、不思議にフィットしていた。
肌が小麦色なので、ユダっちみたいに目に見えて頬がピンクに染まったりはしないが、それでも、いつもと比べて血色が良いのが分かる。
ゆで卵のようにつやつやの肌に、湯上りの汗がキラキラと光って、まるでラメを散りばめたようだ。
そして、浴衣の上からでも分かる、大きく盛り上がった胸元。
比べるのが失礼なのは重々承知しておりますが、隣のユダっちと比較すると、その差は一目瞭然なのであります。はい。
ちなみに胸のことばかり書いているが、実をいうと僕はお尻の方が好きである。
ニコニコと笑顔を振りまく美女二人に看取られて死ねるなら、僕は今、この畳の上で死んでもいい。
この時ばかりは、本気でそう思ってしまった。
僕には、心の奥底に密かに抱いている「野望」というものがあって、それを実現するまでは絶対に死ねないと固く誓っていた。
それが、美しい女性の前では、いとも簡単に崩れ去ることを僕はこの時学んだ。
男とは、かくも愚かしい生き物である。
男の、敗北だ。
しかしこの敗北感、心地よい。
温泉から部屋に戻ると、仲居さんたちが卓の上に料理を並べている最中だった。
部屋中を縦横無尽に飛び回り、エミリーが写真を撮りまくっている。
そんな様子を、ハラハラと見守るユダっち。
どっちが年上なのか、一瞬分からなくなって、思わず笑ってしまった。
準備が整ったところで、仲居さんが記念撮影をしてくれた。
この時の写真は、一生の思い出として、今でもアルバムの中に大切に収められている。
食事中は、今日の寺社見学の興奮冷めやらぬエミリーと、博学多才なユダっちとの知的な会話についていくのでやっとである。
話題はあちこちに飛び、夜の更けるままに、それぞれの人生観や恋愛観、将来の夢などを語り合った。
今思い出しても、まるで青春ドラマの一コマである。
ところで、エミリーは酒が強い。ビールを何杯飲んでも、日本酒が気に入って徳利を二本おかわりしても、表情も態度も全く変わらない。仮に顔色が変わっていても、元が褐色の肌なので、ほぼ分からない。
一方、僕はアルコールを一切受け付けない体質なので、最初からペプシである。
そしてユダっちは…
途中から何となく目つきがおかしくなっているのに気づいてはいたが、だんだんと顔がトマトのように赤くなっていった。
態度が変わったり暴れたりしなかったのは幸いだったが、このままバッタリ倒れてしまうのではないかと、僕は気が気でなくなってきた。
そして予感が的中。
ユダっちは「もういっかい、もういっかーい」と意味不明な言葉を発して、エミリーの方に倒れこんだ。
びっくりしたエミリーが心配そうにユダっちに声をかけたが、ユダっちはむにゃむにゃとつぶやきながら、とうとうエミリーの膝枕で眠ってしまった。
困ったような笑みを浮かべたエミリーが、僕にそっと囁いた。
「きっと疲れていたんだね。今日一日、私のために頑張ってくれたんだもの」
そう言って、エミリーは覆いかぶさるように、ユダっちを抱きしめた。頬にキスもしていたかもしれない。僕の位置からは見えなかった。
顔を上げたエミリーは、最後に一言、
「今日は、本当にありがとう」
しっかりと僕の目を見据えて、笑顔で言った。
こんなにもまっすぐで美しい「ありがとう」に、僕はいまだかつて出会ったことがない。
感動のあまり返す言葉が見つからず、僕はアホみたいに首を縦に振ることしかできなかった。
エミリーは、聖母マリア様の再来ではないかと、僕は本気で思ったのだった。
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