変な夢を見た。
僕は動物園の飼育係をしていて、ゾウの出産に立ち会っている。
難産の末ようやく生まれた赤ちゃんゾウは、いくらも経たないうちに歩き始め、何かのはずみで僕にぶつかってきた。
仰向けに倒れた僕の上に、赤ちゃんゾウが前脚を乗っけてくる。
や、やめてくれ!動けないし、息ができない!
僕が叫んでも、無邪気な赤ちゃんゾウはじゃれているつもりなのか、足をどけてくれない。
く…苦しい…
「苦しいよぉ~」
何とも情けない自分の声で、目が覚めた。
部屋の天井が見え、蛍光灯の明かりが目に飛び込んでくる。眩しい。
周りの状況がうまく把握できない中で、僕は自分の身体の上に何かが乗っかっていて、呼吸が苦しいことに気付いた。
見ると、深いブラウンの豊かな髪が、僕の胸の上でウェーブを描いている。
僕はハッと息をのみ、急激に鼓動が早くなるのを感じた。
エミリーが僕の上に覆いかぶさって眠っているのだ。
決していやらしい気持ちではなく、僕はエミリーの身体に触れた。
大丈夫だ。ちゃんと服は着ている。
ちなみに、僕もきちんと服を着ている状態だった。
何事も無かったということだ。(…残念なことに)
とりあえず、エミリーを起こさないように、布団まで運んでいくことにした。
ずり落ちないように、まずは両手でしっかりとエミリーを抱きかかえて…
女の人を抱きしめるのって、こんな感じなんだ…
温かくて優しくて、柔らかいけど弾力がある。
なんか、すごく気持ちがいい。
少なくとも3回、僕の胸はキュンとした。
数年前、ウブな学生だった僕のレベルはこんなものであった。
欧米スタイルだからいいよね、と言い訳をしながら、いつか見た洋画を真似て、僕はエミリーの髪をそっと撫でた。
シルクのような肌触りが伝わってくる。
愛しさが大波のように押し寄せてきて、このままでは気が変になりそうだ。
僕はそっとエミリーを横に寝かせて起き上がった。
ここまできてようやく気付いた。ここはエミリーの部屋ではないか。
ついでに、エミリーはホットパンツにTシャツという格好である。たしか、昨日の夜は浴衣を着ていたような気がするんだけど…
すでに布団が敷かれていて、僕たちは座敷のど真ん中、テーブル脇の座布団の上で眠っていたらしい。
時計を見ると、夜中の2時半。
僕はエミリーを「お姫様抱っこ」して布団まで連れていき、夏掛けをかけて蛍光灯を消した。
床置きタイプの常夜灯が、部屋の中をうっすらと照らし出している。
エミリーの眠る布団の脇に座布団を敷いて、僕はその上にあぐらをかいた。
安らかな寝息を立てて眠るエミリーの横顔を眺めながら、僕はここまでの経緯を思い出していた。
酒の飲みすぎでKOされたユダっちをどうするか、僕とエミリーで話し合った結果、僕が彼女のアパートまで運んでいくことになった。
僕たちのいる旅館からユダっちのアパートまで、車で10分かそこらだったので、タクシーを呼んで送り届けることにしたのだ。
しばらくするとユダっちは息を吹き返して、一人で帰れるから大丈夫と言い張った。
立ち上がったユダっちは完全に千鳥足で、とても大丈夫とは言い難い状態だったので、やはり僕はエミリーを一人残し、迎えに来たタクシーにユダっちと一緒に乗り込んだ。
しきりに涙声で謝るユダっちをなだめているうちに、彼女の住むアパートに着いた。
カギを受け取ってオートロックを開錠し、ユダっちの身体を支えながらエレベーターに乗り込む。
恥ずかしいから玄関までで大丈夫と言い張るユダっちだったが、言ってることとは裏腹に、玄関についても僕の肩に回した手を離してくれない。
仕方なく、僕は玄関のナンバーキーの暗証番号を聞いて、ユダっちの部屋に入った。
ベッドに横たえた時には、ユダっちは再び眠りに落ちていた。
明日は無理しなくて大丈夫だから、ゆっくり休んでね。
…眠っている彼女に言っても無駄なので、書き置きを残そうと、紙とペンを探した。
ベッドの前のテーブルには、たくさんの本が広げられている。
京都旅行のガイド本と、日常英会話フレーズ集、日本を外国の友達に紹介しよう!的な単語帳…
ふいに胸が熱くなって、涙がこみあげてきた。
僕はどうやら勘違いをしていたようだ。
ユダっちは高校の時の同級生で、その当時から英語が得意なので有名だった。
K塾の全国模擬試験で、見たこともないような偏差値を叩き出したのを、今でも覚えている。
そうは言っても、海外に住んだことがあるわけではなく、日本に居ながらにして頑張って英語を勉強した結果、得意科目になったのだ。
将来は英語を使って仕事がしたいと、猛勉強の末、難関と呼ばれる外国語学部の英語コースに進学した。
何もしないで上手くなったわけではない。
考えられないほどの努力を続けた結果として、ユダっちはここまで来たのだ。
そして今でも、こんなふうにたくさんの本で勉強している。
「あいつは頭が良いから」とか、「あいつは天才だから」とか、ついつい言ってしまう言葉だけど、それは自分が努力をしないことへの言い訳じゃないか?
少なくとも、英語の天才に思えたユダっちは、計り知れない努力の末に「天才」になったのだ。
「私のために頑張ってくれたんだもの」
エミリーの言葉がよみがえった。
ユダっちなら頑張らなくたって大丈夫だろ~と思って、さっきは軽く聞き流したけど、今はその意味がよく分かる。
ユダっちは今日のためにしっかりと勉強して、万全の準備をして臨んでくれたのだ。
意味が無いことを知りつつ、僕はベッドで眠るユダっちに頭を下げた。
気高い彼女を前に、そうしないではいられなかった。
書き置きを残し、電気を消し、玄関のオートロックが施錠されたことを確認して、僕はアパートの前で待ってもらっていたタクシーに乗り込んだ。
車内で、僕は急に不安になってきた。
エミリーを一人残してきたけど、大丈夫だろうか?
今さら気づいたが、そろそろ仲居さんたちが食後の片付けに来る時間だ。
エミリーはほぼ、日本語が話せない。
旅館に着いてタクシーの会計を済ませると、僕は部屋に飛んで帰った。
部屋に入ると、案の定、テーブルの上はきれいに片付けられていて、エミリーが食後のお茶を飲んでいるところだった。
「おかえり。彼女は大丈夫?」
「ユダっちなら問題ないよ。それよりエミリー、大丈夫だった?ほら…」
僕はテーブルを指さした。
それで、僕の言いたいことを理解したのか、エミリーは笑いながら答えた。
「ああ!心配してくれてありがとう。でもね、ウェイトレスさん(※エミリーは仲居さんという言葉を知らない)たちが英語で話してくれたから大丈夫だったよ」
はぁ…
僕はしばらく言葉が出なかった。
安心したのと、感心したのと…
さすが国際化の時代。おそらくこの旅館にも、たくさんの外国人旅行客がやってくるに違いない。
仲居さんも英語を話す時代である。
「今日は本当にありがとう。明日もよろしくね」
エミリーを部屋の入り口まで送り届けて、僕は自室に戻った。
とりあえず叔父さんに今日の経過を電話で報告した。(ただし、ユダっちの件は伏せておいた)
ふぅ。
一連のドタバタで汗をかいたので、もう一回温泉に入りに行こう。
夜の10時を過ぎているというのに、温泉には意外とたくさんの入浴客がいた。
ひとっ風呂浴びて体を拭いていると、電話が鳴った。
ディスプレイを見ると、「エミリー叔父さん」とある。
日本にいる間、エミリーは叔父さんの電話を使うことになっていた。
アドレス帳を書き直そうと思ったのだが、なぜか上手くいかず、こうなってしまったのだ。
「ハロー!眠っていたらごめんね。あ、起きてた?良かった。…あの、もし良かったら、私の部屋に遊びに来ない?そう、そう。お話しましょう。いい?じゃあ、待ってるね。バーイ」
脱衣場で素っ裸のまま英語を話す僕は、さぞ滑稽だったことだろう。
僕は鼻息荒く着替えを済ませると、エミリーの部屋へと急いだ。
エミリーは、デニムのホットパンツにTシャツという姿で待っていた。
いかにもアメリカンな雰囲気だ。
浴衣姿もいいけど、こっちもなかなか良い。
お茶を飲みながら他愛もない会話を続けている内に、なぜかまた新幹線の中でやった「海戦ゲーム」をやろうということになった。
初心者の僕に負けたことが、いまだに納得いかないらしい。
のぞむところだ。
すると、なぜかエミリーは、紙とペンを持って僕の隣に腰かけた。
「…あのさ、それじゃ丸見えで勝負にならないんだけど」
「あなたは前を向いていなさい。私はこの体勢でやる」
僕は前を向き、エミリーは横から自由に僕の手元を覗ける状態である。
「完全にアンフェアなんですけど」
「…私、新幹線の中であなたが何をしたか知ってるよ」
ぎくり。
僕は新幹線の中で、二つの大罪を犯した。
一つ。海戦ゲームの途中、エミリーが富士山に見とれているのをいいことにカンニングして、汚い勝利を収めた。
一つ。富士山を見るふりをして、柔らかく美しい「谷間」を覗いた。
どちらを知っているというのか。
あるいは、どっちも知っているということなのか。
僕は言い返す言葉もなく、黙って従うことにした。
当然、勝ち目はない。
数ターンで、僕の軍艦は撃沈した。
「…降参します」
そう言った途端、エミリーが「ど~ん!」と大声を出して、僕を畳の上に押し倒した。
「敵艦を撃沈しました!」
エミリーが笑いながら僕の上にのしかかって、脇腹をくすぐってきた。
驚いたのと、くすぐったいのとで、僕は笑いの発作を起こした。
まさに阿鼻叫喚。僕たちの叫び声が、他の部屋に聞こえてなかったことを願う。
しばらくじゃれ合っているうちに、僕は疲れ果てて、畳の上に大の字に寝転がった。
エミリーが、僕の胸の上に顔を乗せてくる。
「…楽しいね」
エミリーが微笑みながら、とろんとした目で僕を見上げてきた。
「うん、楽しいね」
こんなに無邪気で幸せな時間を最後に味わったのは、いつだろう?
「このまま眠っちゃおうかな~」
エミリーが甘えた声を出した。
僕も、一日の疲れがどっと押し寄せてきて、なんだか眠くなってきた。
幸せな気分に浸っているうちに、いつしか眠りに落ちていったようだ。
薄闇の中、エミリーの寝顔を眺めながら、僕はもう一度だけ、彼女の身体に触れたいと思った。
抱きしめた時の、あの幸福感を、もう一度味わいたかったのだ。
もう一回くらいなら、いいよね?
神様…
エミリーの方に伸ばしかけた手を、僕は途中で止めた。
ふいに、ユダっちを思い出したのだ。
何かを手に入れたいなら、それに見合う努力をしなければならない…
ユダっちに教えられたことが、急に心の中によみがえってきた。
そうだ。エミリーをもう一度抱きしめたいなら、今度は彼女の愛を努力で勝ち取らなければならない。
その時がくるまで、僕はエミリーに触れてはならない。
僕は決意した。
いつかきっと、エミリーの愛を手に入れる。
彼女を、この腕に抱きしめる。
彼女と一緒に、幸せになる。
エミリーの寝顔を見つめながら、僕は何度も、心の中で決意を繰り返した。
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