夏のエミリー 3

夏のエミリー

夏のエミリー 2(前話)

 

変な夢を見た。

 

僕は動物園の飼育係をしていて、ゾウの出産に立ち会っている。

 

難産の末ようやく生まれた赤ちゃんゾウは、いくらも経たないうちに歩き始め、何かのはずみで僕にぶつかってきた。

 

仰向けに倒れた僕の上に、赤ちゃんゾウが前脚を乗っけてくる。

 

や、やめてくれ!動けないし、息ができない!

 

僕が叫んでも、無邪気な赤ちゃんゾウはじゃれているつもりなのか、足をどけてくれない。

 

く…苦しい…

 

 

 

 

「苦しいよぉ~」

 

何とも情けない自分の声で、目が覚めた。

 

部屋の天井が見え、蛍光灯の明かりが目に飛び込んでくる。眩しい。

 

周りの状況がうまく把握できない中で、僕は自分の身体の上に何かが乗っかっていて、呼吸が苦しいことに気付いた。

 

見ると、深いブラウンの豊かな髪が、僕の胸の上でウェーブを描いている。

 

僕はハッと息をのみ、急激に鼓動が早くなるのを感じた。

 

 

 

 

エミリーが僕の上に覆いかぶさって眠っているのだ。

 

 

 

 

決していやらしい気持ちではなく、僕はエミリーの身体に触れた。

 

大丈夫だ。ちゃんと服は着ている。

 

ちなみに、僕もきちんと服を着ている状態だった。

 

何事も無かったということだ。(…残念なことに)

 

とりあえず、エミリーを起こさないように、布団まで運んでいくことにした。

 

ずり落ちないように、まずは両手でしっかりとエミリーを抱きかかえて…

 

 

 

 

 

女の人を抱きしめるのって、こんな感じなんだ…

 

温かくて優しくて、柔らかいけど弾力がある。

 

なんか、すごく気持ちがいい。

 

少なくとも3回、僕の胸はキュンとした。

 

数年前、ウブな学生だった僕のレベルはこんなものであった。

 

 

 

 

欧米スタイルだからいいよね、と言い訳をしながら、いつか見た洋画を真似て、僕はエミリーの髪をそっと撫でた。

 

シルクのような肌触りが伝わってくる。

 

愛しさが大波のように押し寄せてきて、このままでは気が変になりそうだ。

 

僕はそっとエミリーを横に寝かせて起き上がった。

 

 

 

 

ここまできてようやく気付いた。ここはエミリーの部屋ではないか。

 

ついでに、エミリーはホットパンツにTシャツという格好である。たしか、昨日の夜は浴衣を着ていたような気がするんだけど…

 

すでに布団が敷かれていて、僕たちは座敷のど真ん中、テーブル脇の座布団の上で眠っていたらしい。

 

時計を見ると、夜中の2時半。

 

 

 

 

僕はエミリーを「お姫様抱っこ」して布団まで連れていき、夏掛けをかけて蛍光灯を消した。

 

床置きタイプの常夜灯が、部屋の中をうっすらと照らし出している。

 

エミリーの眠る布団の脇に座布団を敷いて、僕はその上にあぐらをかいた。

 

安らかな寝息を立てて眠るエミリーの横顔を眺めながら、僕はここまでの経緯を思い出していた。

 

 

 

 

酒の飲みすぎでKOされたユダっちをどうするか、僕とエミリーで話し合った結果、僕が彼女のアパートまで運んでいくことになった。

 

僕たちのいる旅館からユダっちのアパートまで、車で10分かそこらだったので、タクシーを呼んで送り届けることにしたのだ。

 

しばらくするとユダっちは息を吹き返して、一人で帰れるから大丈夫と言い張った。

 

立ち上がったユダっちは完全に千鳥足で、とても大丈夫とは言い難い状態だったので、やはり僕はエミリーを一人残し、迎えに来たタクシーにユダっちと一緒に乗り込んだ。

 

 

 

 

しきりに涙声で謝るユダっちをなだめているうちに、彼女の住むアパートに着いた。

 

カギを受け取ってオートロックを開錠し、ユダっちの身体を支えながらエレベーターに乗り込む。

 

恥ずかしいから玄関までで大丈夫と言い張るユダっちだったが、言ってることとは裏腹に、玄関についても僕の肩に回した手を離してくれない。

 

仕方なく、僕は玄関のナンバーキーの暗証番号を聞いて、ユダっちの部屋に入った。

 

ベッドに横たえた時には、ユダっちは再び眠りに落ちていた。

 

明日は無理しなくて大丈夫だから、ゆっくり休んでね。

 

…眠っている彼女に言っても無駄なので、書き置きを残そうと、紙とペンを探した。

 

 

 

 

ベッドの前のテーブルには、たくさんの本が広げられている。

 

京都旅行のガイド本と、日常英会話フレーズ集、日本を外国の友達に紹介しよう!的な単語帳…

 

ふいに胸が熱くなって、涙がこみあげてきた。

 

 

 

 

僕はどうやら勘違いをしていたようだ。

 

 

 

 

ユダっちは高校の時の同級生で、その当時から英語が得意なので有名だった。

 

K塾の全国模擬試験で、見たこともないような偏差値を叩き出したのを、今でも覚えている。

 

そうは言っても、海外に住んだことがあるわけではなく、日本に居ながらにして頑張って英語を勉強した結果、得意科目になったのだ。

 

将来は英語を使って仕事がしたいと、猛勉強の末、難関と呼ばれる外国語学部の英語コースに進学した。

 

 

 

 

何もしないで上手くなったわけではない。

 

考えられないほどの努力を続けた結果として、ユダっちはここまで来たのだ。

 

そして今でも、こんなふうにたくさんの本で勉強している。

 

「あいつは頭が良いから」とか、「あいつは天才だから」とか、ついつい言ってしまう言葉だけど、それは自分が努力をしないことへの言い訳じゃないか?

 

少なくとも、英語の天才に思えたユダっちは、計り知れない努力の末に「天才」になったのだ。

 

 

 

 

「私のために頑張ってくれたんだもの」

 

 

 

 

エミリーの言葉がよみがえった。

 

ユダっちなら頑張らなくたって大丈夫だろ~と思って、さっきは軽く聞き流したけど、今はその意味がよく分かる。

 

ユダっちは今日のためにしっかりと勉強して、万全の準備をして臨んでくれたのだ。

 

意味が無いことを知りつつ、僕はベッドで眠るユダっちに頭を下げた。

 

気高い彼女を前に、そうしないではいられなかった。

 

書き置きを残し、電気を消し、玄関のオートロックが施錠されたことを確認して、僕はアパートの前で待ってもらっていたタクシーに乗り込んだ。

 

 

 

 

車内で、僕は急に不安になってきた。

 

エミリーを一人残してきたけど、大丈夫だろうか?

 

今さら気づいたが、そろそろ仲居さんたちが食後の片付けに来る時間だ。

 

エミリーはほぼ、日本語が話せない。

 

旅館に着いてタクシーの会計を済ませると、僕は部屋に飛んで帰った。

 

部屋に入ると、案の定、テーブルの上はきれいに片付けられていて、エミリーが食後のお茶を飲んでいるところだった。

 

「おかえり。彼女は大丈夫?」

 

「ユダっちなら問題ないよ。それよりエミリー、大丈夫だった?ほら…」

 

僕はテーブルを指さした。

 

それで、僕の言いたいことを理解したのか、エミリーは笑いながら答えた。

 

「ああ!心配してくれてありがとう。でもね、ウェイトレスさん(※エミリーは仲居さんという言葉を知らない)たちが英語で話してくれたから大丈夫だったよ」

 

はぁ…

 

僕はしばらく言葉が出なかった。

 

安心したのと、感心したのと…

 

さすが国際化の時代。おそらくこの旅館にも、たくさんの外国人旅行客がやってくるに違いない。

 

仲居さんも英語を話す時代である。

 

 

 

 

「今日は本当にありがとう。明日もよろしくね」

 

エミリーを部屋の入り口まで送り届けて、僕は自室に戻った。

 

とりあえず叔父さんに今日の経過を電話で報告した。(ただし、ユダっちの件は伏せておいた)

 

ふぅ。

 

一連のドタバタで汗をかいたので、もう一回温泉に入りに行こう。

 

 

 

 

 

夜の10時を過ぎているというのに、温泉には意外とたくさんの入浴客がいた。

 

ひとっ風呂浴びて体を拭いていると、電話が鳴った。

 

ディスプレイを見ると、「エミリー叔父さん」とある。

 

日本にいる間、エミリーは叔父さんの電話を使うことになっていた。

 

アドレス帳を書き直そうと思ったのだが、なぜか上手くいかず、こうなってしまったのだ。

 

「ハロー!眠っていたらごめんね。あ、起きてた?良かった。…あの、もし良かったら、私の部屋に遊びに来ない?そう、そう。お話しましょう。いい?じゃあ、待ってるね。バーイ」

 

脱衣場で素っ裸のまま英語を話す僕は、さぞ滑稽だったことだろう。

 

僕は鼻息荒く着替えを済ませると、エミリーの部屋へと急いだ。

 

 

 

 

エミリーは、デニムのホットパンツにTシャツという姿で待っていた。

 

いかにもアメリカンな雰囲気だ。

 

浴衣姿もいいけど、こっちもなかなか良い。

 

 

 

 

お茶を飲みながら他愛もない会話を続けている内に、なぜかまた新幹線の中でやった「海戦ゲーム」をやろうということになった。

 

初心者の僕に負けたことが、いまだに納得いかないらしい。

 

のぞむところだ。

 

 

 

 

すると、なぜかエミリーは、紙とペンを持って僕の隣に腰かけた。

 

「…あのさ、それじゃ丸見えで勝負にならないんだけど」

 

「あなたは前を向いていなさい。私はこの体勢でやる」

 

僕は前を向き、エミリーは横から自由に僕の手元を覗ける状態である。

 

「完全にアンフェアなんですけど」

 

「…私、新幹線の中であなたが何をしたか知ってるよ」

 

 

 

 

ぎくり。

 

 

 

 

僕は新幹線の中で、二つの大罪を犯した。

 

一つ。海戦ゲームの途中、エミリーが富士山に見とれているのをいいことにカンニングして、汚い勝利を収めた。

 

一つ。富士山を見るふりをして、柔らかく美しい「谷間」を覗いた。

 

どちらを知っているというのか。

 

あるいは、どっちも知っているということなのか。

 

僕は言い返す言葉もなく、黙って従うことにした。

 

当然、勝ち目はない。

 

数ターンで、僕の軍艦は撃沈した。

 

 

 

 

「…降参します」

 

そう言った途端、エミリーが「ど~ん!」と大声を出して、僕を畳の上に押し倒した。

 

「敵艦を撃沈しました!」

 

エミリーが笑いながら僕の上にのしかかって、脇腹をくすぐってきた。

 

驚いたのと、くすぐったいのとで、僕は笑いの発作を起こした。

 

まさに阿鼻叫喚。僕たちの叫び声が、他の部屋に聞こえてなかったことを願う。

 

しばらくじゃれ合っているうちに、僕は疲れ果てて、畳の上に大の字に寝転がった。

 

 

 

エミリーが、僕の胸の上に顔を乗せてくる。

 

「…楽しいね」

 

エミリーが微笑みながら、とろんとした目で僕を見上げてきた。

 

「うん、楽しいね」

 

こんなに無邪気で幸せな時間を最後に味わったのは、いつだろう?

 

「このまま眠っちゃおうかな~」

 

エミリーが甘えた声を出した。

 

僕も、一日の疲れがどっと押し寄せてきて、なんだか眠くなってきた。

 

幸せな気分に浸っているうちに、いつしか眠りに落ちていったようだ。

 

 

 

 

 

薄闇の中、エミリーの寝顔を眺めながら、僕はもう一度だけ、彼女の身体に触れたいと思った。

 

抱きしめた時の、あの幸福感を、もう一度味わいたかったのだ。

 

もう一回くらいなら、いいよね?

 

神様…

 

 

 

エミリーの方に伸ばしかけた手を、僕は途中で止めた。

 

ふいに、ユダっちを思い出したのだ。

 

 

 

何かを手に入れたいなら、それに見合う努力をしなければならない…

 

 

 

ユダっちに教えられたことが、急に心の中によみがえってきた。

 

そうだ。エミリーをもう一度抱きしめたいなら、今度は彼女の愛を努力で勝ち取らなければならない。

 

その時がくるまで、僕はエミリーに触れてはならない。

 

 

 

 

僕は決意した。

 

 

 

いつかきっと、エミリーの愛を手に入れる。

 

彼女を、この腕に抱きしめる。

 

彼女と一緒に、幸せになる。

 

 

 

エミリーの寝顔を見つめながら、僕は何度も、心の中で決意を繰り返した。

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